棄民の歴史に涙する ~阿智村・満蒙開拓平和祈念館~
「涙なくして見られない」
私にとっては、そう表現するしかありません。
私は社会科教員のはしくれです。
『大地の子』は、昔NHKで見ました。
満蒙開拓や残留孤児について、概略は知っているつもりでした。
そんな私ですが、詳しく知ると、自分の無知が恥ずかしくなりました。
もっと早く、ここに来るべきでした。
上の写真で●と▲は、開拓団が入った場所を示しています。
この多さに驚きました。
アップで撮ったものなので、これが全部ではありません。
この記念館が長野県にある理由が、上の写真です。
「満蒙開拓民」は、長野県出身者が最も多かったのです。
理由は、次のように説明されています。
「養蚕業の衰退」
「耕地面積の狭さ」
「海外移民事業に積極的な土壌」
1937年に日中戦争が始まると、「満蒙開拓青少年義勇軍」も募集されました。
募集にあたっては、学校が大きな役割を果たしました。
15歳~19歳の少年たちが満州に送られました。
退職教員である私にとって、胸が絞めつけられる展示でした。
この時代に生きていたら、私もこれに加担していたかもしれません。
敗戦後の様子については、まずまず知られているのではないでしょうか。
記念館では、開拓移民の方々の証言を文章や動画で紹介しています。
これが、私が最も衝撃を受けた展示でした。
一人ひとりの事情が、様々なのです。
そのどれもが、涙なくして聞けない、読めないものでした。
動画の中には、残留孤児を育てた現地の方のインタビューもありました。
これがまた、泣けて仕方ないのです。
よくぞここまで調べたものです。
私、何度も書きますが「〇〇人は…」と語る人は信用できません。
ひと口に「中国人」と言っても、親切な人と、そうでない人がいます。
それは、日本人も同じなのです。
そういう実例を、この記念館では多々見聞きすることになります。
「概略を知っていること」と「個別のケースを知っていること」は、全く違います。
前者は「知っているつもり」に過ぎないことがしばしばあります。
そんなことは、分かっていたつもりでした。
今回、改めて「お前は知っているつもりに過ぎなかった」
と突き付けられたように感じました。
戦争が終わった後も、様々な困難がありました。
彼らを助けるために努力した人もいましたが、国は冷たい態度でした。
開拓民の人々は、満州に捨てられ、帰国してから再度捨てられたと言えるでしょう。
記念館の近くに「長岳寺」という寺があります。
「武田信玄終焉の地」として知られています。
それに加えて「中国残留孤児の肉親捜しを始めたお寺」でもあります。
こちらにも寄ってきました。
御朱印をお願いしたカミさん曰く
「以前の住職(残留孤児の肉親捜しを始めた)によく似た方だった」
とのこと。
今の住職は、お孫さんなのでしょうか。
満蒙開拓平和記念館のWebサイトはこちら
【補足】
帰宅してから読んだ雑誌に、こんな記事がありました。
「…憲法改正が、いま自民党から提示されている内容だけで終わるのは、国としての誇りがなさ過ぎる…」
(櫻井よしこ氏)
あの時代にも、このての発言をする人が多々いたのです。
満州侵略を進めた関東軍は、満蒙開拓民を守ってくれるはずでした。
しかし、実際にはそれと逆の結果になりました。
ひどい目にあうのは、一般国民なのでした。
満州現地の人々も同じです。
関東軍と共に満蒙開拓を推し進めた加藤完治氏は、1967(昭和42)年まで生きます。
83歳でしたから、天寿を全うしたと言って良いでしょう。
「中国残留孤児」の帰国に向けた活動が始まるのは、その14年後のことでした。
上記の雑誌には、こんな言葉も載っていました。
「私の友人に、韓国のエリート外交官だった人がいます」
「日本の政治家はダメだった。役人は(中略)大したことがなかった」
「しかし、普通の人がすごい」
「少しでもいい仕事をしようと嬉々として頑張っている。
こんな国は日本しかないと言ったんですよ」
(山上信吾氏)
その「普通の人々」が再びひどい目にあう日は、来るのでしょうか。
なんだか嫌な予感がする昨今です。
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